日本映画が再び世界で勝ちはじめたのは、半世紀ぶりに窓が開いたから。
ここ二、三年、世界の映画祭の受賞者リストを眺めていて、気づいたことがあります。
日本人の名前が、また並びはじめたんです。
2026年のカンヌ国際映画祭。岡本多緒さんが、日本人の俳優として初めて女優賞を受賞しました。濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』での受賞です。
同じ年、イタリアのウディネ・ファーイースト映画祭では、MEGUMIさんがプロデュースした『FUJIKO』が、最高賞にあたるゴールデン・マルベリー賞を獲りました。日本映画として初めてのことです。
アメリカのSXSWでは、賀来賢人さんが製作した『Never After Dark』が観客賞を獲り、その後も各地の映画祭で評価され続けています。
アカデミー賞でも動きがありました。李相日監督の『国宝』が、メイクアップ&ヘアスタイリング賞に日本映画として初めてノミネートされました。
受賞は逃しましたが、この作品は国内で興行収入200億円を超え、実写邦画として初めての大台に乗せて、歴代記録を22年ぶりに塗り替えています。
極めつきが、2026年のカンヌです。是枝裕和、濱口竜介、深田晃司。三人の新作が、揃ってコンペティション部門に入りました。日本から三本が同時にコンペに並ぶのは、2001年以来のことです。しかも同じ年、カンヌに併設される世界最大の映像見本市マルシェ・デュ・フィルムで、日本は「カントリー・オブ・オナー」、つまりその年の主賓国に選ばれています。これも初めてです。
一本ならまぐれです。でも、この量は、もう「流れ」と呼ぶしかありません。
「日本のエンタメ、ついに世界で大人気だね」
たぶん、多くの人はそう感じていると思います。気持ちは、わかります。わたしも受賞のニュースが流れてくるたびに、嬉しくなる一人です。
ただ、長いあいだIPの座組を組む側にいた人間として正直に言うと、わたしには、もう一段だけ別の景色が見えています。
この記事の問いは、ひとつだけです。
いま起きていることは、本当に「作品が良くなったから」なのか。
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才能は、急に上手くなったわけじゃない
問いに対する答えを、シンプルに言ってしまいます。
日本映画の才能は、急に上手くなったわけではありません。半世紀以上前から、ずっと世界一級でした。
いま変わったのは、才能の質ではないんです。その一流の才能を世界へ運ぶ「窓」のほうです。半世紀ぶりに、その窓が開いた。わたしには、そう見えています。
窓というのは、ものすごくざっくり言うと、作品を世界へ運ぶ出口のことです。配給網、配信、ライセンス。どれだけ良い作品でも、出口がなければ国境を越えられません。
つまり、世界で評価されるために要るのは、一流の才能と、それを世界へ運ぶ窓。この両方です。才能はもちろん大前提。そのうえで日本にずっと足りていなかったのは、後者のほう、つまり窓だったんです。
順番に見ていきます。まず、才能のほうから。
才能は、羅生門からずっとここにいた
国際映画祭の世界で、日本はもともと「先頭ランナー」でした。
黒澤明監督の『羅生門』が、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲ったのが1951年。衣笠貞之助監督の『地獄門』がカンヌの最高賞を獲ったのが1954年。
今村昌平監督にいたっては、『楢山節考』と『うなぎ』で、カンヌの最高賞パルムドールを二度も受賞しています。日本人で二度獲ったのは、いまも今村監督ただ一人です。北野武監督の『HANA-BI』も、1997年にヴェネチアの金獅子賞に輝きました。
つまり、世界の映画祭で評価されること自体は、日本が半世紀以上も前から、当たり前のようにやってきたことなんです。
ここが、この話のいちばんの逆説だと思います。「日本映画は世界では通用しない」という感覚は、じつはわりと最近の、しかも一時的な思い込みにすぎません。
その思い込みが生まれたのは、2000年代です。アジア映画の主役の座が、海を渡って韓国へ移っていきました。パク・チャヌク監督の『オールドボーイ』がカンヌでグランプリを獲った2004年あたりからです。
決定打は、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』でした。2019年にカンヌでパルムドール、翌2020年のアカデミー賞では作品賞を含む四冠。英語以外の作品が作品賞を獲ったのは、映画史上初めてのことでした。
このころ、日本映画は「韓国に遅れを取った」と、さんざん言われました。わたしも当時、すこし悔しい思いで眺めていた一人です。
でも、才能の質が急に落ちたわけではないんですよね。現にこの「停滞期」とされる期間にも、是枝監督の『怪物』はカンヌで脚本賞を、役所広司さんは『PERFECT DAYS』でカンヌの男優賞を、
濱口監督の『悪は存在しない』はヴェネチアで銀獅子賞を、早川千絵監督の『PLAN 75』はカンヌでカメラドール特別表彰を獲り続けています。
才能は、ずっとここにいました。一度も、どこにも行っていないんです。
いまも、むかしも。
足りなかったのは、窓のほうだった
では、なぜ。世界一級の才能を持っていた日本映画が、半世紀も「世界では通用しない」と言われ続けたのか。
答えは、才能の外側にあります。窓です。
窓の正体を理解するために、先に世界を獲った隣の国を見てみます。韓国です。
韓国が先に世界を獲れたのは、才能だけの力ではないと、わたしは見ています。韓国の才能はもちろん一級です。そのうえで彼らは、一級の才能を世界へ押し出す「仕組み」を、国ぐるみで先に用意していました。
この仕組みが、けっこう面白いんです。大きく、三つ。
ひとつは、スクリーンクォータ制。ものすごくざっくり言うと、「映画館は一年のうち何日かは、必ず自国の映画を上映しなさい」という決まりです。外国の大作だけで一年が埋まらないように、国が自国映画の居場所を確保しています。
もうひとつが、映画のチケット代に少しだけ上乗せして、自国映画の制作に再投資する仕組みです。フランスの方式を手本にしたもので、観客が一枚チケットを買うたびに、次の韓国映画の予算が積み上がっていきます。
その資金を配分する国家機関もあります。さらに、CJ ENMのような大企業が、制作から配給、映画館までを一気通貫で握っています。『パラサイト』の裏側にも、CJ ENMの出資がありました。こうした合わせ技で、韓国は自国映画の興行シェアを、いっとき五割以上にまで押し上げています。
つまり韓国は、才能が爆発するのを待ったのではなく、才能が爆発しても受け止められる「器」を先に作ったんです。これは本当に見事な設計で、学ぶところしかありません。
ここまでで、物差しの使い方は一国ぶん、実演できたと思います。
世界で評価されるために要るのは、一流の才能と、それを世界へ運ぶ窓。韓国は、その窓を国家と大企業が作った。では、同じ物差しを日本に当てると、どうなるか。
座組の会議で、最初に出る言葉
その前に、ひとつだけ、現場の話をさせてください。
前職で、「この作品を世界に出すかどうか」を決める会議に、何度も出ていました。長机に資料が並んで、各部署の担当が席に着きます。
そこで最初に話題になるのは、作品の出来栄えではないんです。
「どの窓から出すのか」「誰がいくら出すのか」「権利を最後に誰が握るのか」。この三つが、いつも先でした。作品の中身が語られるのは、その後です。
身も蓋もない話に聞こえるかもしれません。でも、どんなに素晴らしい作品でも、世界に届くかどうかは、この「座組」のほうで半分以上が決まってしまう。それが、わたしが現場で見てきた景色です。
だから、いまの受賞ラッシュのニュースを見るとき、わたしは作品の出来栄えと同じくらい、その裏側を見てしまいます。誰が窓を開けたのか。誰が座組を握ったのか。
そして日本映画の窓は、いま、確かに開きました。
ここでわたしの結論を先に置いておきます。
日本映画は、急に人気になったわけではありません。半世紀閉じていた窓が、ようやく開いただけです。そして、いちばん面白いのはここなのですが、その窓を開けたのは、日本映画の内側ではありませんでした。ある外資と、作り手の「肩書き」の静かな逆転。窓を開けたのは、この二つです。
ここから先は、その窓の正体を座組のレベルでほどいていきます。
アニメだけが持っていた窓が、実写にも開いた
日本の実写映画は、なぜ長く世界に出にくかったのか。
理由は、流通の構造のほうにありました。
考えてみてほしいんです。日本のアニメは、実写よりずっと早く世界を制覇していました。2024年のアカデミー賞では、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が長編アニメーション賞を、
山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』が視覚効果賞を獲っています。アニメと特撮は、とっくに世界の頂点に届いていました。
なぜ、アニメは先に出られて、実写はそうではなかったのか。
これも才能の差ではなく、構造の差です。
アニメには、製作委員会という仕組みがあります。ざっくり言うと、何社かでお金を出し合って、その代わりに「テレビ、映画、配信、グッズ、海外、ゲーム」と、いくつもの窓から同時に回収していくやり方です。最初から多言語・多地域で売ることを前提に組み立てられています。だからアニメは、国境をまたぐ窓を、生まれつき持っていました。
実写は事情が違いました。日本の実写映画やドラマは、長いあいだテレビ局と芸能事務所と国内の興行を中心に回ってきました。これは悪いことではありません。むしろ、国内のお客さんに最速で、いちばん良い形で届けるには、とてもよくできた仕組みでした。たくさんの名作も生まれています。ただ、その構造は国内向けに磨かれていたぶん、海外の配給網という壁の前で、世界へ出る窓をあまり持っていなかった。それだけのことです。
その閉じていた窓を、外からこじ開けたのが配信でした。
賀来賢人さんがNetflixの『忍びの家』で世界中に届いたのは、彼の演技が急に世界基準になったからではありません。もともと一級だった実力が、ようやく世界じゅうの家のテレビに、字幕つきで同時に届く窓を得たからです。アニメだけが持っていた「多窓で回収する構造」が、配信によって実写にも開放された。そう捉えるほうが、現実に近いと思います。
『Never After Dark』も『FUJIKO』も、この新しい窓を見据えて座組が組まれています。世界の映画祭と、その先の配信を、最初から計算に入れた作り方なんです。
才能が、つくる側に回りはじめた
窓が開いただけでは、まだ半分です。もうひとつ、静かだけれど決定的な変化が起きています。
才能が、「製作する側」に回りはじめました。
いちばん分かりやすいのが、真田広之さんの『SHOGUN 将軍』です。これは映画ではなくドラマシリーズですが、だからこそ象徴的だと思います。2024年のエミー賞で、このシリーズは十八冠を獲りました。一シーズンでの受賞数としては史上最多。真田さんは日本人で初めて主演男優賞を獲り、アンナ・サワイさんはアジア系で初めて主演女優賞を獲っています。
ここで見落としたくないのは、真田さんがこの作品に「主演俳優」としてだけ関わったのではない、という点です。彼はプロデューサーとして、座組そのものに深く食い込んでいました。時代考証から所作の一つひとつまで、現場の意思決定に関わる立場にいました。俳優が、与えられた役を演じるだけでなく、作品そのものを設計する側にも回ったんです。
同じことが、あちこちで起きています。MEGUMIさんは『FUJIKO』のプロデューサーでした。賀来賢人さんは『Never After Dark』の製作者でした。かつて「出演者」として知られた才能が、いまは「誰が金を出し、誰が決め、誰が権利を持つか」という座組の中心にも座っています。
わたしが「日本映画の世界進出」の本当の中身だと思っているのは、ここです。
作品の質が急に上がった、という話ではありません。作品をめぐる権利と決定権が、組織だけのものから、作り手自身の手にも渡りはじめた。才能が、表現するだけでなく、構造を設計する力まで持ちはじめています。
念のために書いておくと、かつてのテレビ局や事務所が中心の構造を、わたしは否定したいわけではありません。それは国内市場に対してちゃんと合理的でしたし、たくさんの名作を生んできました。ただ、世界という別の市場が開いたとき、その市場でとくに強かったのが「自分で座組を握れる作り手」だった。それだけのことだと思います。
奥山大史という、いちばん小さい座組
もうひとつ、新しい形を体現している人がいます。奥山大史監督です。
デビュー作『僕はイエス様が嫌い』でスペインのサンセバスティアン映画祭の新人監督賞を獲り、二作目の『ぼくのお日さま』は2024年のカンヌ「ある視点」部門に選ばれました。
この人がすごいのは、監督でありながら、脚本も、撮影も、編集も、ぜんぶ自分でやってしまうところです。普通なら何人もの専門家とお金が必要な工程を、ほとんど一人で握っています。
これはつまり、奥山監督という個人が、それ自体で最小の製作委員会になっている、ということなんです。
大きな資本に判断を委ねなくても、自分の頭の中にある映像を、自分の手で最後まで通せる。だから企画から世界の映画祭までの距離が、おそろしく短いんです。委員会の稟議も、担当者の異動も、彼の作品には関係がありません。
わたしは前職で、「担当者は二年で異動するのに、IPは十年単位で育てなきゃいけない」という時間軸のズレを、いやというほど見てきました。良い企画が、誰のせいでもなく、ただ組織の都合で立ち消えていく。その景色を知っているから、一人で全部を握る作家が世界に出ていく姿は、正直、まぶしいんですよね。
配信という窓。製作する側に回る才能。そして一人で全工程を握る作家。この三つが、いま同時に立ち上がっています。
窓の向こうに、待っていたもの
ここまで「窓」の話をしてきました。最後に、その窓を開けると向こうに何があったのか、に触れておきます。
無人の荒野ではありませんでした。日本の作品を待っている観客が、もういたんです。たくさん。
これは映画が一人で作った観客ではありません。日本のアニメやキャラクターやゲームが、何十年もかけて、世界中に「日本のものが好き」という熱を先に育てておいてくれた。ポケモンは累計売上1,000億ドルを超える世界一のメディアフランチャイズになり、コミケに何十万人も並ぶ国は世界にそうありません。実写映画は、その温まった観客席に、いちばん後から入っていける立場なんです。
象徴的なのが、アニメ映画の『超かぐや姫』です。Netflixで配信されたこの作品は、配信で500万人が観たあとに劇場公開され、興行収入は10億円を超え、いまも20億円台まで伸び続けています。
歌唱パートは5言語でローカライズされ、世界中で「自国のコンテンツ」として受け入れられました。窓に乗せれば、日本のものを待っている熱に、ちゃんと届く。その実例です。※記事も書いているので合わせてどうぞ。
「超かぐや姫!」にNetflixが出したのは、お金じゃない。
「超かぐや姫!ネットフリックスがなければ生まれなかった。日本の苦しいアニメ制作現場の問題が、外資のマネーで解決されてしまうのは、なんとも悲しい限り」。お侍さん(@ZanEngineer)のこのポストが話題でした。
窓が開く。向こうには、先に温まった観客がいる。この順番が、いま初めて噛み合いはじめています。
韓国は上から、日本は下から
ここで、さっきの韓国の物差しに戻ります。
韓国は、国家と大企業が「上から」器を作りました。スクリーンクォータ、チケットへの上乗せ、国家機関、垂直統合された大資本。制度設計で、才能の受け皿を先に用意するやり方です。
では、日本はその韓国モデルを輸入したのかというと、していないんですよね。むしろ逆の方向から起きています。
日本で窓を開けたのは、国の制度ではなく、Netflixをはじめとする外資の配信でした。そして座組を握りはじめたのは、大企業ではなく、真田広之やMEGUMIや奥山大史といった、作り手の個人です。国家が上から器を作った韓国に対して、日本は外からの窓と個人の意志が、下から噛み合って動きはじめています。
どちらが上ということではありません。出発点が違うだけです。だから日本の勝ち方は、韓国のコピーにはならないし、なる必要もない。
そしてここは、むしろ希望のある話だと思っています。国の大きな制度を待たなくても、窓と当事者さえ揃えば、世界には出ていける。その実例が、いま目の前で増えています。
では、次に窓をくぐるのは誰か
ここまでの物差しを持って、これから世界で実績を積んでいくであろう作り手を、何人か挙げてみます。冷静に、けれど期待を込めて。
まずは奥山大史監督。一人で全工程を握る新しい作家の形を、もっとも純度高く体現しています。次の長編がどの窓から世界に出るのか、わたしは予告編より座組のほうが気になっています。
早川千絵監督。『PLAN 75』で高齢者の安楽死という重いテーマを世界に問い、カンヌでカメラドール特別表彰を受けました。社会の痛点を正面から撮れる監督は、国境を越えやすいんです。
山中瑶子監督。『ナミビアの砂漠』で、カンヌの国際批評家連盟賞を、女性監督として最年少で獲りました。若さと鋭さが、同じ一本のなかに同居している人です。
空音央監督。『HAPPYEND』でヴェネチアに出た人で、音楽家の坂本龍一さんの息子でもあります。日本とアメリカをまたいで育った感覚が、そのまま無国籍な強みになっています。
石川慶監督。『ある男』でヴェネチアに届きました。海外の映画大学で学んだ構成力が、作品の背骨になっています。
それから、作家を世界へ押し出す「製作する人」たち。真田広之さんは『SHOGUN』の続編を進めながら、ハリウッドと日本の橋渡しを続けています。MEGUMIさんは、カンヌで日本映画人の交流の場を自ら主宰するなど、もはや一人の仕掛け人として動いています。賀来賢人さんは、受賞リストに名前が載るタイプの活躍とは別の、「世界に届く座組をつくる側」として注目しています。
この人たちに共通しているのは、才能そのものに加えて、「その才能をどの窓から、どんな座組で世界に出すか」を自分で設計できる感覚を持っていることです。
二度目の黄金期の
入り口
最後に、わたしが、いまの景色をどう見ているかを書いておきます。
日本映画は、芸術的な評価という意味では、半世紀以上ずっと世界の一流でした。羅生門の金獅子から、ずっとです。足りなかったのは、才能ではなく、その一流の才能を世界市場へ運ぶ窓と、座組のほうでした。
その足りなかったピースが、配信という外からの窓と、作り手が製作する側に回っていく流れによって、いま静かにはまりはじめています。半世紀かけて積み上げた芸術的な権威と、ようやく手に入りつつある流通の構造。この二つが噛み合うのは、日本映画の歴史でも、たぶん初めてのことです。
だからわたしは、これから十年で日本映画が「二度目の黄金期」に入る可能性は、本気であると思っています。まじで。超、楽しみなんです。完全に自論です。でも、ピースの揃い方を見るかぎり、根拠のない楽観ではないつもりです。
次に受賞のニュースを見るとき、よかったらこう見てみてください。
才能は、もう疑わなくていい。
見るべきは、誰が窓を開けて、誰が座組を握ったか。その二つが見えたとき、あなたは「次にどの作品が世界に出るか」を、受賞リストより先に言い当てられるようになっています。
その黄金期を本物にするのは、才能だけではありません。世界一級の才能なら、この国にはもう十分にあります。あとは、その才能をどの窓から世界へ出し、誰が座組を握り、それを設計できる製作者が、どれだけ育っていくか。そこにかかっています。
そして、その窓と座組を設計できる人が、この国にもっともっと増えていく未来に、わたしはいま、いちばん期待しています。
それでは。
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けけ。さん、今回も超、超、面白かったです!!!
新しく開かれた窓から、日本の作品が次々と飛び出していく、風というよりうねりのようなものを感じました。うねりが大きな波になっていくのも、もうすぐなのでしょうね。
ご紹介くださった作品の中でまだ観ていないものがたくさんありました。これから観てみたいと思います。
これ、伝えたいことを、伝えたい相手に届けるスキルと知識のない今の自分にもとても参考になりました。
私の場合抑えているのは自分のスキルのなさですが、ここを突破して「窓」を開けたい。