「IP」という言葉は、好感度が低い。
今日は自己破壊の記事を書きます。
このsubstackで、プロデューサー視点からさんざん「IPビジネス」の発信をしてきた人間が、自分が使い倒してきた言葉に自分で石を投げるような話なんですが、最近強く感じていることなので、書きます。
「IP」という言葉は、なぜこんなに好感度が低いのか。本記事では、その正体をプロデューサー視点で掘り下げていきます。
みんな「良い作品」を作りたいのであって、「良いIP」を作りたいわけじゃない
漫画、アニメ、ゲーム、キャラクター、音楽、小説、映画——。
人がひとり、あるいはチームで集まって、根を詰めてもがきながら生み出した「作品」がある。それをビジネスの世界では「IP」と呼ぶ。Intellectual Property、知的財産。
技術的には正しい。法的にも正しい。でも、その言葉が纏っている空気は、なんというか、冷たいんですよね。
漫画家は良い漫画を描きたい。アニメーターは良いカットを描きたい。音楽家は良い曲を作りたい。「良いIP」を作りたいと思って机に向かっている人は、たぶんほとんどいない。
わたしの中にも数パーセントのクリエイターがいます。その部分は、はっきり「IP」という言葉を嫌っている。いくらビジネス的に正しくても、自分が根を詰めて生み出したものを、今向き合っている作品を最初から「知的財産」と呼ばれたくはない。
逆に、プロデューサーとしてクリエイターと接するときには、種類を問わず、「IP」という言葉は使わないようにしています。その人のフィールドにおける「作品」という言葉に、意識して言い換えている。
クリエイターが「私には関係ない」と言った日
いまでも、はっきり覚えている場面があります。
エンタメ企業でプロデューサーをやっていた頃。長机を挟んで、向かいに一人のクリエイターが座っていました。新しい展開の打ち合わせです。わたしは資料を開きながら、こう言う。「このIPの展開なんですけど——」。
ビジネス側にとっては、なんでもない言葉です。戦略会議でもSlackでも、みんな息をするように使う。その日のわたしも、なんの気なしに「IP」と口にしていました。
その瞬間、向かいの彼の表情が、すっと変わるのが見えるんです。
怒りでも、拒絶でもない。ただ、静かに何かが切れる。言葉にするなら、「全然違う世界の話をされているな。私には関係ないな」——そういう顔でした。目の前で回線がふっと落ちる感じ、と言えばいいでしょうか。
いま、あのときの顔を思い出しながら書いていても、当然だよな、と思うんです。
その人は、IPを作っているつもりなんて、なかった。作品を作っていたんです。何ヶ月もかけて、ときには体を壊しながら生み出したもの。それを会議室で「IP」と呼ばれた瞬間に、自分の創作物が、スプレッドシートの1行になる。ポートフォリオの構成要素になる。「展開」や「活用」の対象になる。
あの、すっと変わった表情。あれを目の前で見てしまってから、わたしはクリエイターの前で「IP」という言葉を使わなくなりました。漫画家の前では「作品」、アニメーターの前では「タイトル」、音楽の人の前では「曲」や「楽曲」。その人のフィールドにある言葉に、意識して変えています。
エマ・トンプソンとタランティーノと富野由悠季
この違和感は、わたしだけのものではないようです。
2023年、イギリスの俳優エマ・トンプソンが、Royal Television Societyのカンファレンスで「”コンテンツ”? なんですかそれ。クリエイティブな人間にとって失礼な言葉です」と発言しました。ちょうどハリウッドの脚本家・俳優のストライキの最中で、クリエイターの仕事がどう呼ばれるかは、どう扱われるかに直結するという文脈でした。
記事を見ると、エマ・トンプソンが問題にしているのは「Content」という言葉が、映画も音楽も小説も、すべてを”配信プラットフォームを埋める素材”に均してしまうことでした。「IP」も構造は同じです。漫画もアニメもぬいぐるみも、「IP」と呼んだ瞬間に”権利の束”に均される。
マーティン・スコセッシの2019年の発言も有名です。「Marvelの映画はシネマではない、テーマパークだ」。これは直接「IP」という単語を批判したものではないですが、既存のIPを安全に展開する映画づくりへの違和感として、同じ根を持っている発言だと思います(The New York Times への本人寄稿)。
クエンティン・タランティーノは2026年6月、Sight & Sound誌で現代のハリウッドを「味のないソーセージ工場(flavorless sausage factory)」と呼びました。続編、リブート、既存IPの焼き直しばかりで、オリジナルの居場所がなくなっていると。
日本にも同じ声があります。
ガンダムの生みの親である富野由悠季監督は、2008年の「東京コンテンツマーケット」で「なんでコンテンツという言葉が流通して、そんな言葉を平気で使えるのだろうか」と問いかけています。「IP」が英語圏のビジネス用語なら、「コンテンツ」は日本語圏でまったく同じ役割を果たしてきた言葉です。「作品」と呼んでいたものを「コンテンツ」と呼び始めた瞬間に、それは”器に入れて流通させるもの”になる。富野監督の怒りは、そこに向いています。
これらの発言に共通しているのは、「言葉が変わると、扱いが変わる」ということだと思うんです。作品をIPと呼ぶ。映画をコンテンツと呼ぶ。呼び方が変わっただけで、同じものを指しているはず。でも、言葉が纏っている空気が変わると、組織の中での優先順位が変わり、会議での議題が変わり、最終的には作り方まで変わってしまう。
「資産価値」と言われた瞬間、家が坪単価になる
比喩として聞いてください。
たとえばわたしがいま、注文住宅を建てようとしている、とします。土地を探して、間取りを考えて、どんな暮らしをしたいかをパートナーと話し合って、あれこれ夢を膨らませている最中です。
その過程で気づいたことがあるんですが、「資産価値」という言葉が出た瞬間に、会話の温度が変わるんですよね。
もちろん家は「不動産」であり「資産」です。30年後のリセールバリュー、エリアの地価推移、固定資産税。そういう数字を見ることは、たぶん正しい。でも、わたしたちが打ち合わせで話しているのは「この窓からどんな景色が見えるか」とか「子供が走り回れるリビングにしたい」とか、そういう話なんです。
そんな中で、一緒に作っているハウスメーカーの人に、「資産」と呼ばれた瞬間に、その家は坪単価の話になる。
いくらで売れようが、10年後の地価がどうなろうが、今ここで自分がいちばん欲しい家を建てる。今、自分が出せる最高のものを出す。みんながみんな「資産」として家を見ているわけじゃない。
クリエイターも、たぶん同じだと思うんです。今ここで、自分が出せる最高の作品を出す。それが結果としていくらの「IP」になるかは、作っている最中の動機にはなりえない。
ヒップホップに「shit」という言葉がある
もうひとつ、別の角度から言わせてください。
ヒップホップの現場では、自分が作ったトラックやバースを「shit」と呼ぶことがあります。”This is my shit”——直訳すれば「これは俺の糞だ」。でも意味は真逆で、「今の自分が出せる最高のもの」なんです。
自分の最高傑作に、自分で「糞」とラベルを貼る。その距離感が、バランスが、いいものだなと思うんです。
話をもどします。
誤解してほしくないんですが、「クリエイターはみんな、ただ良い作品を作りたいだけの純粋な人たちだ」という話ではありません。それはそれで一辺倒すぎる。
本当のところ、作り手はもっと生々しいバランスに悩んでいると、わたしは思うんです。
自分が本当に作りたいものをそのまま出しても、世の中に理解されるとは限らない。だからどこかで、世の中に好まれるゾーンに迎合する。その割合が低すぎると「自己満」で終わる。高すぎると「どこかで見たことのある何か」になる。
売れてほしい。届いてほしい。でも、自分の最高も曲げたくない。この自己満と迎合のあいだのどこに立つかを、作り手はみんな、ずっと模索している。その模索こそが、創作の本体なんだと思います。
そこにいきなり「IP」「アイピー」と言われると、ずれる。「IP」という言葉は、最初から「資産になる側」「売れる側」に針が振り切れているから。まだ作品が生まれてもいない、その模索の真っ最中に、迎合の側の物差しだけを差し出される。だから、ずれるんです。
「IP」は創作の言葉ではない
じゃあ、「IP」という言葉はいらないのか。
そうは思いません。わたし自身がIPビジネスの構造を解説する記事をこのsubstackで書き続けているのは、その構造を知ることに価値があると信じているからです。製作委員会の仕組み、ライセンスの設計、海外配信の権利構造、これらを理解することは、作品を育て、守ることにもつながる。
ただ、「IP」は道具の言葉であって、創作の言葉ではないんだと思います。
会議室で使う分には機能する。戦略を立てるときには必要になる。でも、作っている人の前で使う言葉ではない。ファンの前で使う言葉でもない。使う場面を間違えると、相手の回線が切れる。あの日のクリエイターのように。
「作品」のまま、世界に出ていく
最後に、少し希望の話をさせてください。
日本のエンタメがいま、世界に出ていっています。アニメ、漫画、ゲーム、キャラクター、音楽。その勢いは、わたしがエンタメ企業にいた頃とは比べものにならないくらい加速しています。
で、面白いなと思うのは、海外で受けている日本の作品の多くが、「IP戦略」から生まれたものではないということなんですよね。
『鬼滅の刃』は、吾峠呼世晴さんが一人で描き始めた漫画です。
『呪術廻戦』も、『チェンソーマン』も、『SPY×FAMILY』も。
最初から「グローバルIPを設計しよう」と思って作られたものではないと、わたしは感じるんですよね。
作家が作品を作った。それが結果としてIPと呼ばれる規模に育った。順番が逆なんです。
良い作品が先にあって、IPは後からついてくる。「IPを作ろう」から始めると、資産設計が先に来て、作品が道具になってしまう。でも「作品を作ろう」から始めると、クリエイターの動機と設計が一致する。結果として、世界に届く強度を持つものが生まれる。
日本のエンタメの強さは、たぶんここにあるんじゃないかと思うんです。「作品」という言葉をまだ手放していないこと。クリエイターが「良い作品を作りたい」というシンプルな動機で机に向かっていること。それを支える編集者やプロデューサーがいること。それを時間をかけて、守り、育てる出版社のような環境があること。直接ファンに届くコミケなどの環境があること。
わたしはIPビジネスの構造を語る人間ですが、その構造の出発点にあるのは、いつも誰かの「作品」です。それを忘れたくないし、これからも「作品」という言葉を大事にしたい。
日本のエンタメが「作品」のまま世界に出ていく。
その流れを、プロデューサーの立場から支えたい。
IPビジネスをさんざん語ってきた人間として、そういうことを思っています。








「IP」は道具の言葉であって、創作の言葉ではない、という整理が印象に残りました。
作品を守るための言葉が、使う場所を間違えると、作り手から作品を少し遠ざけてしまう。
その怖さを、プロデューサー自身の自己批評として書いているところに説得力がありました。
会議室の言葉と、机に向かう人の言葉は、やはり別物ですね。
朝日さん、はじめまして。
IPという言葉が嫌われる理由を、温度で語った文章は初です。
ビジネスの言葉が便利になりすぎた時代に、あえて作品という原点に立ち返る姿勢は、創作の現場にとって小さくても確かな救いだと感じました。
あと、アイコンの世界観に親近感が湧きます🐾